昭和43年5月6日 夜の御理解 (末永信太郎) №43-062
今朝から久留米の岡崎さんが、(ああして?毎日?)日参しておられますが、昨日、青年会で(ざっしょう)の教会に行かれたんです。ほれで、まあ、あちらの青年会に参加されたわけですが。あの、中でどこかの青年の方が、信心とは何かというそのことを言い出したのに対してから、まあ、その人の適切な、信心とは何かということが、まあ、あんまりハッキリと言われなかった。
ほれで、自分もそのことに対して考えたて言うわけですね。まあ、合楽で信心のけいこをしておる人なら、もう、本当を言うたら、もう、何と言うでしょうかね。縦横無尽にお話が出けると思うんですよね。信心とは何か、信心とはこれだ、信心とはああだ、と。ね。まあ、例えば、そういう風に。けど、なかなか、いざという時には出て来ないもんですが。まあ、それから、この、信心とは何か、と。
自分は信心させてもらいよってから、人に問われた時に自分はどげん応えるだろうかと思うて、昨日からずうっと考え続けた、と。そして、あの、今日、車の中で、こういう結論が出ましたと言うて、話されるんですよね。それからあの、どういうことですかって言ったら、信心とは、私はもう、真心で言うということだと思う。信心とは、もう、真心で聞くことだと思うと、こう言う。
それはまた、素晴らしいことを心に練り出すことが出けたですね。確かにそうです。それは、それだけではありますまいけれども、確かにそうですねと言うて話したことですが。お互い、信心をさせていただきよって、信心で、いわゆる真心で言う、または、人の言いうことを真心で聞きよる、聞く、と。
確かにそこには、あの、素晴らしい体験が生まれて来るだろう。そして、はっきり、そういう風に言葉では表現出けなかったですけれども、そういうことがです、信心だとおぼろげにやっぱ自分で分かった。信心する者はこうでなからなきゃならんという気持ちで、私は商売させて頂くにも、これを実行しておったということに気が付いたと、こう言われております。ね。
だから、自分で実行が出けておっても、なかなか言葉に出して現すということは、まあ、言うなら難しいと言やあ難しいことですね。けれども、そのことの中に、話を聞くばかりが能ではない、わが心からも練り出せと言われるが、この練り出すことの大事なこと。もう、私も今日は、そういうお届けさせて頂きながら感じたんですね。確かにあの、そこだけに焦点を絞っても、信心とはこういうもんだということが言えれるようなおかげが頂けるだろうと、こう思いますですね。
心にもないことを言うたり、ね、何を言いよるかという気持ちで聞いたり、本当にそれを真心で聞く、真心で言う、と。信心とは先生、こういうこっじゃなかでしょうか。なるほどそうです、と私も思わずその、合点したんですけれども。その、それだけではありますまいけれどです、もう、大変大事な一つのポイントをついたことだと、私は思わせてもらいました。
お互いがどんなに詳しいことが、素晴らしいことが分かっても、そのような事がやはり実行されていないとするなら、自分のものになって行ってないとするなら、これはやはり、信心に悖っておるわけですから、信心とはということの答えが出て来ないのじゃないかと、こう思うですね。
信心とは、ね、真心で言うことだ。信心とは、真心で聞くことだ、と。これは、まあ、あの、岡崎さんが昨日から今日にかけて、一生懸命、心に考え抜いて出た答えで、たしかに間違いのない、まあ、答えの一つになるだろうと、こう思いますですね。どうぞ。